you're forever to me >> 8-3


 マグマの中に人の血を落として溶かした様――辺り一帯真っ赤な泥が滾り、壁の方はそこかしこ皮膚を真皮までベロリとめくり上げ、見ているだけでも金切り声で絶叫してしまいそうな悲惨な有様――そんな空間の中に、天城の精神体は不安定に佇んでいた。その周りには例に漏れず、暗白色の霧がもやもやと立ち込めている。
「雪子!」
「ダメだ、まだ出るな!」
 天城の姿を発見して、矢も盾もたまらない里中は、握っていた悠の上着の端を離して天城の元へ駆け寄ろうとしたが、聞いたことの無い悠の鋭く迫力ある制止にびっくりして行動を取り止める。
「心配するのはわかる。だけど見守ってくれ。天城の為に」
 里中が行動を断念するのを確認して悠は天城の方を見た。霧による天城への圧迫は始まっていて、里中も悠の視線の先を追うように天城の姿を注視する。

 あーあ、また天城越え失敗した。今日はそばに里中もいなかったのにさ、秒殺だったわ。つかさ、確かにすっげえ美人だけど、愛想もクソもなさすぎ?断り方ぐらいあんだろ?それとも何、ブサイクとはまともにしゃべんのもお断りってヤツ?上から目線甚だしいよな
 美人で勉強できてもさー、性格あんなんじゃ友達も少ないわけだよなー。里中以外の女子とまともにしゃべってるの見たことないから女子受けも悪いのか?むしろよっぽど里中が物好きとか?ああ、里中も天城以外の友達らしいのいない感じ?
 二人の世界で完結してるのが薄気味悪いよな。同じ相手で毎日楽しいんかね?ま、別にシカトされる運命の俺たちにゃどうだっていいことだけどさ。なまじ見た目が良くて目を引くから、視界に入るとイチイチ癪に触るんだよな、二人とも
 
 あれこれ好き勝手に揶揄され、天城だけに止まらず里中まで非難を浴びせる男子連中に、天城の沸点は突破した。

 私の事だけならいざ知らず、千枝のことまで悪く言わないで!あなたたちにとやかく言われる筋合いなんてない!

 悪く言わないで、だってさ。口先では頼りにしてるなんて言っておいて、本当は里中ではどうにもならないことを、他の誰かに助けて欲しいって思っているくせに
 幼馴染かなんだか知らないけど、里中でも限界があるよね。家の事は天城自身がどうにかしなくちゃいけない問題だし
 天城さんてさ、絶対里中さんのこと羨んでるよね。学校終わって家の用事でさっさと帰る時、私って大変なのよっていう雰囲気を里中さんに向かって飛ばしてるように見えるもん

 え…

 今度は女子生徒たちが天城を口撃する。女子は他人のことを思いの外よく観察している。天城が動揺を見せているところを見ると、意外なまでに的確な指摘のようだ。悪意たちの攻撃はなおも続く。
 天城屋旅館へ取材に来ていたリポーターの厭らしい囁きだ。

 高校生女将、いい響きだねえ。これだけ美人で若けりゃ何年かはマスコミから引っ張りだこだ。就職難の世の中で、すでに立派な働き口があるなんて羨ましい限りだよねえ。ご両親に感謝しなくちゃ。まさか…他にやりたい事があるからって、跡を継がずに家を出てくなんて、そんな罰当たりな事考えてないよねえ?

 天城の顔色が蒼白だ。目を見開いたまま立ち尽くしている。図星過ぎて何も言い返せない、先日遠い目をしてみせた天城の様子を思い出した悠にはそのように見える。里中は痛々しい天城を目の前にして我慢の糸が切れたのか、天城の元へ猛然と駆け出した。
「あ、こらっ!」
 今度はもう悠の制止は里中に届かなかった。里中が天城のそばへ辿り着く。
「雪子っ!」
「え…千枝…?どうして…ここに?」
 予期せぬ人の登場に、付け加えれば今一番会いたくなかった人が自分の目の前に現れて、天城は手で口を覆う。
「雪子、あたし…!」
「全部…今の、全部聞いてたの?」
 震える声で天城が里中に訊ねると、里中はコクリと一つ頷いた。それを見て天城が両手で完全に顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「雪子、あのね!」
「やめて!何も聞きたくない!」
「違うの!あたし雪子を問い詰める為にここに来たんじゃない!」
「じゃあ何?今ここで聞いたこと、そんな事無いって言ってくれるの?違うでしょ?」
 顔を覆った両手を外し険しい形相で逆に天城が里中に言い放つと、里中は思わずたじろいだ。
「雪子…?」
 天城は張り詰めた表情を緩め、観念して事実を吐露する。
「…私、千枝に庇われる価値なんてない。だって私…今言われたこと…」
 そのまま天城は顔を地面に向けて泣き出してしまった。悪意たちの囁きは、天城が蓋をし続けていた現実と本音に他ならない。自分だけの問題を暴かれるならいざ知らず、度々自分の盾になってくれていた里中を、当てに出来ないと諦めている心情までぶちまけられてしまった。里中に顔を見せられない、天城には嘆くことしかできなかった。
「雪子…そのままでいいから聞いて。あたし、ここに来たのは雪子のこと助けに来た…って、言いそうになったけど、それ全然違った。いや…違うわけじゃないんだけど、それが本題じゃないの。あたしは、あたしの気持ちを伝えたくて…雪子のところへ来たの」
「千枝の…気持ち…」
 流れる涙そのままに、天城が里中の顔を見上げた。里中は天城と同じ視線になる為にその場で膝を折る。
「あたし、雪子がいないと全然ダメなの…雪子がいなくなったこの何日かで思い知った。美人で頭が良くて何でも持ってる雪子があたしずっと羨ましくて…そんな雪子がいつもあたしのそばにいるのが自慢だった。頼られてるのが嬉しかった。でもホントは逆だって気づいた…雪子がそばにいないとダメだったのはあたしの方だったんだ」
「千枝…」
「なのにあたし…雪子の一番傍にいたのに、雪子が悩んでいること気づけなくて…ううん、もっと性質悪いよ。あたしは自分の楽して出来る範囲でしか、雪子のこと知ろうとはしなかった。雪子は旅館の跡継ぎだってことを当然のように思い込んでいたから、悩みの存在自体あるはずがないって…そんな話すらしようとしなかった。おかしいよね、誰でも将来なりたいものの一つや二つや三つ、あるのが普通なのに、あたしは頭から雪子の将来を決め付けていたなんて」
 里中は言葉にする事で自分の不甲斐なさを改めて痛感する。その気持ちが涙となって現れた。
「ゴメン…雪子。あたしは自分のことばっかりで、雪子を大事にできてなかった。雪子に頼られて、それで優越感に浸って、自分の都合ばっかで雪子と一緒にいた…そんなサイアクな自分の一面知って…あたし、ホントは雪子の傍にいる資格なんてない。だけど…それでも…雪子と一緒にいたいの!」
 里中が泣きじゃくりながら天城に気持ちを伝えきると、今度は天城の番だった。か細い声が里中の鼓膜を震わす。
「千枝…私…私の方こそ…いつだって、千枝に逃げていた。千枝は私のこと大事にしてくれたから、居心地が良かった。千枝がいれば、私はそれでよかったの…ずっとそう思っていたのに、いざ将来のことを考える年頃になって、周りが色んな事を口にし出したら…私には、他の選択肢が無いんだって…絶望したの。こればかりは千枝に頼ることもできなくて…精一杯なんて事無いように振舞うだけしかできなかった。千枝に解決できない問題を、千枝に知って貰っても困らせるだけだって思ったから」
「雪子…」
「伝統ある旅館…従業員の皆の暮らし…私には重過ぎる責任だし、他の将来だって考えてみたい。だけど逃げ出す勇気も無くて…誰でもいいから、私を救ってくれる人が現れないか、だなんて…自分の気持ちをぶつけることなく…ただ夢想していたの。私こそ、自分の都合ばかり考えてた…自分が傷つくことなく、現状がどうにかならないかだなんて、そんな旨い話あるわけないのにね」
 天城は泣きながら里中の顔を見て自嘲気味に微笑する。
「ゴメンね、千枝…黙ってて。私、きっと心の底から千枝を信用できていなかったんだと思う。私には千枝しかいないのに…架空の誰かに縋ってしまうなんて、私、千枝の事馬鹿にしてるのと同じだった。私こそ、千枝の傍にいたいって思うのが贅沢なのだろうけど…私これからも、千枝と一緒にいたい」
「雪子…雪子…!」
 爛れた壁が急速に修復されていき、溶岩のような泥が退いていく。空間が正常になっていくと同時に、二人を取り巻く霧の勢いも衰えていく。
 そして驚くべき事に、里中と天城の精神体が強く発光し出した。悠が力を振るうのと同等、いやそれ以上かもしれない。二人からの発光は次々と霧を消滅させ、終には完全に無くなってしまった。
「きせ、き…か…?」
 智天使マーガレットの言葉を思い出す。奇跡――天界の者には想像が及ばない、凄い現象を起こす力を差すのだという。人に、また人の精神体に、天使の振るう力と同じような造作が行えるとは聞いた事が無い。そういう意味では、二人が今起こしているのは、奇跡と言える力なのかもしれない。
 強烈な発光から通常レベルの発光へと治まった二人の下へ、悠は近寄った。案の定、天城から驚きの声が上がる。
「鳴上君!?どうして、ここに?」
「ごく簡単に言えば、天城を助けに来た、かな。でも天城の事を助けたのは、里中だ」
「え、ええ、ち、違うよ!ここに連れてきてくれたのは鳴上君だし、あたしのこと助けてくれたのは鳴上君だし!っていうか、あたしもまだ事情がわかってないし!」
「どういうことなの?」
「これは全部無意識下での出来事だ。だから二人とも肉体の目覚めを迎えれば、忘れてしまう。だから俺のことは気にしなくていい」
 ここでの出来事を忘れてしまう。確かに悪意たちから吹き込まれた内容は忘れるに越した事は無い陰惨なものではあったが、ここで二人が互いに伝え合った事や悠に助けられた事まで忘れてしまうのはいただけない。
「そんな…」
「…忘れてしまうのなら尚更教えて欲しい。鳴上君は、普通の人…ではないの?」
 核心を突いた天城の指摘に、悠は一瞬表情を止めた。
「どうしてそう思ったんだ?」
「だって、ここは現実の世界ではないんでしょ?今鳴上君は無意識下って言った。そんな所に来れるのは私たちが考えられないような、何か特別な力でも持っているのかなって」
 なかなか天城は鋭いんだな…というか、人の言った言葉を捕まえて噛み砕くのが上手い。悠は素直に感心したが、一層余計な話は言えないと、苦笑いして話を余所へ持っていくことにする。
「特別な力を起こしたのは、天城たちの方だ。俺は何もしていないよ。それに…ちょっと言い方を変えようか。忘れてしまうわけじゃなくて、思い起こせなくなる…こっちの方が適当か。ここで二人が互いに伝えた事は、何かしらの形で…それこそ無意識の内に出てくるかもしれない」
「鳴上君、質問の答えになってないよ」
「残念、そろそろ時間だ」
「えー、教えてくれたっていいじゃん!…でも、ちょっと安心した。消えるわけじゃ、ないんだよね。ここでの事」
「うん…見たくなかった事実もいっぱいあったけど、でも今の内に気づいてよかったのかもしれない」
「そうだね。正直アイタタ過ぎたけど、結果オーライってことで!」
 今泣いた烏が笑う…っていうのかな、と悠は笑顔の二人を見て、自身も小さく笑う。しかしもう少し、天城に対して聴取を、里中に対しては施しておかなければならないのを思いつき、表情を引き締める。
「天城、教えてくれ。土曜日の夕方…ここに来る前に、天城に何があったのか」
 請われて天城は思い出そうとしてみるが、首を左右に振った。
「それが……思い出せないの。大宴会場から家の玄関のチャイムが鳴って、そっちの方へ行ったことまでは覚えてるんだけど。気がついたらこの建物の中にいて、疲れて眠って…それだけ」
「そうか」
 霧に入り込まれて精神を乱されては、記憶の整頓もままならない。前後の記憶が定かでなくなるらしいと、天界の参考資料にもそのような記述があった。
「里中」
「ん、何?」
「里中は、ロビーのソファで転寝をしていた。気がついたら行方不明だった天城が帰ってきた…これを、里中の事実とする」
 悠は里中の目を見ながら説き伏せる。無意識下で行う記憶操作だ。あまり推奨されることではないが、悠と一緒にテレビの中に吸い込まれた事を思い出されては面倒になりかねない。絶対ではないが、こうしておけば第一に思い出す記憶はほぼ確実に記憶操作した内容となる。
「は、はい。…わかった」
 本人が了解すれば、記憶操作は実行される。里中も霧に記憶を乱されて、ここに至った経緯を覚えていないのだろうか、滞りなく完了した。
「じゃあ、里中を連れて帰るから、天城とはここで」
「あ、待って!あたし、一人で帰れるから。鳴上君、もう少しだけ、雪子の話聞いてあげて」
「え?」
 これまた予想外の里中の申し出に、悠は頭がついて行かない。里中がどういう意図でもってこんなことを言い出すのか――その回答は、天城の表情にあった。天城は何かを伝えたそうな切羽詰った目で悠を見ている。
「ま、待て、いくら近距離でも、何かあったら…!」
「じゃあ、またね!」
 引き止める間もなく、里中はあっという間にやって来た方向の壁へと消えた。全く無茶苦茶だ。一本道でそれ以外の場所へ迷い込むような危険は無いが、万が一の事を考える悠としては気が気でなくなるのは当たり前である。しかしもう姿を消してしまった里中に頼まれ、天城に引き止められるような視線を寄越されては、悠に残された選択肢は天城の方へ向き直ることだけだった。
「もう、千枝ったら…」
「里中って、いつもあんな感じなのか?」
「うん。私の気持ちにはとても鋭いの。だからこそ…旅館についての悩みだけは、知られるわけにはいかなかった。千枝だったら本当に…今は無理だったとしても、私をここから連れ出してくれる…そう思うから」
「それって里中のこと、さっきはああ言ってたけど、本当に信用してるからこそそう思えるんじゃないのか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、これだけははっきりしてる。大事な千枝を…ただ助けを待っているだけの無気力な私の人生に、千枝を巻き込むわけにはいかなかった…ううん、その考えがそもそもおこがましいのよね。もう十分巻き込んでしまっているのに」
 里中と出会えたのは天城にとって最高の幸運である一方で、大事だからこそ悩ませたくなかった。天城もまた、大事な友人に迷惑をかけまいと自分が満足する為に独りで悩める人を演じたのだ。
「気づけただけでも立派だと思う」
「ううん、まだまだこれから。だから、これからはきちんと自分と向き合うよ。千枝のこと、将来のこと、蓋をしないで立ち向かってみる。こう決めた事、忘れてしまうかもしれないけど…」
「大丈夫だ。夢でも印象に残った夢は覚えているだろう?それと同じだ」
「うん、そうだね。あ、じゃあ鳴上君のことも」
「そこは忘れてくれていい」
 悠が即座に否定すると、天城は少しだけ寂しそうな目をした。
「ここでの記憶は忘れてしまうはずなのに、何も教えてくれないなんて矛盾してる…余程のことなのね」
「ゴメン」
「ううん、正直言うと鳴上君が何者でもいいの。ただ、目覚めてからちゃんとお礼が言いたかっただけだから。千枝を、そして私を助けてくれてありがとうって。でも助けてくれた事を私たちは…きっと忘れてしまうんだね」
「それでいいんだ。それが俺たちの存在意義だから」
「そう…なら今の内にもう一度。鳴上君、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあまた」
 悠は天城の精神体に別れを告げ、その場を後にした。天城の深層の色が一杯に広がっている。鮮やかな紅葉の紅と桜の桃色が織り成す、ここ日本が誇る自然美の色だ。美しい色彩に思わず見惚れてしまう。綺麗で優しくて、凛としていて、自分と向き合うと決意した天城の心そのものを表していた。

「あー…」
 低い唸り声と共に身体を動かしたその人、いやその天使に、クマが半べそ状態で捕りついた。
「センセーイ!おっそいクマー!!」
 長時間変な体勢で動きを止めてしまっていたせいか、背筋が強張り動かすと痛い。できるだけゆっくりと身体を起こしつつ、考えを巡らせる。長時間…って、一体どれくらいの時間が経過しているのか、悠には全く見当がつかなかった。
「クマ、どれくらい時間が経ってる?」
「んもうセンセイ、クマすっごく心配したのに、他に何もないの!?」
 お前は俺の彼女かと、思わず突っ込みたくなったクマの言い回しだが、クマはクマなりになかなか戻って来なかった悠にやきもきしていたのだろう。すっ飛ばして話を進めるのはさすがに申し訳なくなったので宥めておく。
「ゴメンゴメン。ちゃんと上手くいったから。外にクマがいてくれたら大丈夫だって思うからゆっくり取り掛かれたんだ」
「クマ、ちゃんとセンセイの役に立ててる?」
「勿論」
「エヘヘ、センセイったら、クマのこと褒め殺してもなんにも出てこんクマよー」
 むしろ何か出てくる方が怖いわ、とは悠は口に出さなかったが、クマの機嫌はあっさり直ったようだ。クマとは元々付き合い易いというか、波長が合うようで、会話するのに特に難しさや苦を感じない。自分の方が立場が上であるのも要因の一つだろうが、クマはクマで遠慮の無い性格なので気を使う必要が無いのが大きいかもしれない。人に対しては、まだまだ各々の気持ちの在り処を探っている最中なので、なかなか思うように会話が弾ませることができないが、いつかクマと対するのと同じようにスムーズにいけばいいな、とまた一つ新たな願望がわいた。
「そろそろ二人とも目覚めるだろう。ここの調査もまた後日だな…まあ建物自体に怪しそうな点はなさそうだけど」
「臭いもちょっと弱まった感じがするクマ」
「ほう、そうなのか」
 山野真由美が関係したとされる場のイレギュラーは、発生してから1週間が経過しているはずなのに未だ薄れる気配はなく、発生して2、3日程度のここの方が勢いが弱まっているという。違いといえば、前者は巻き込まれた人が死んでしまい、後者は生還している点だろう。人にとってプラスの作用が働けば霧の影響も少なくなるということが実証されたというわけだ。
 横たわっている二人の身体が微妙に動き出した。それを見て悠は上着からおかえりボタンを取り出す。天界からの伝達文書によれば、おかえりボタンが正常に動作する状態では異空間に侵入した地点からほぼ同地点へと帰還できるとのこと。では正常に動作しない場合もあるのかと悠は一瞬ゾっとしたが、文書の続きにはこう書かれていた。
 ボタンの色が紫色以上になるとおかえりボタンの機能そのものは働くが、侵入した地点からは離れて帰還するなど、未知の動作を起こす恐れもあり得る、と。
 こう書かれているということは、前例があるのだろう。誰だそんな命知らずは…と、悠はしなくていいはずの余計な心配をしてしまったものである。それはさておき。
「天使の姿に戻る。できればロビーに誰もいなければいいが…まあ、大丈夫か」
 人間界では、あり得ない光景を目撃されても、目撃者の人数が少なければ公の機関に伝達される時には絵空事として処理される。目撃者も自らの目が頭がおかしかったと思い込むようになる。あり得ない事は日々起こっているが、概してあり得ない事として流されるものである。
「準備オッケークマ」
「よし、じゃあ押すぞ」
 ボタンを押すと、目の前が一瞬歪んで真っ暗になり、なんとも言えない浮遊感に捕らわれる。前回と同じ感覚に身を委ね、悠とクマは暫し意識を飛ばした。

 十数秒程度後、見覚えのある建物内へと戻ってきた。天城屋旅館のロビーのテレビの前である。悠が視界上にあった柱時計をみれば短針が12の数字付近、長針が4の付近だ。ここに来たのが22時半前だったはずなので2時間近く経過していることになる。
 ロビーに他の客の姿は無い。そして更にラッキーなことに、受付にも従業員の姿が無かった。この隙を利用して、二人の身体を移動させる事にした。
 まず里中の身体を、里中自身へ記憶操作した通りにソファに座らせる。そして天城の方は旅館の玄関口へと運んだ。里中から遠ざけたのは、里中へ警察の詮索が向かないようにする為である。どういう捜査が行われるにしても、天城が外から帰ってきたようにしておけば、目撃者がいない今ならば里中に疑いがかかるような運びにはならないだろう。
 天城の身体の移動を終えて一息ついた時、受付奥の詰め所から従業員が現れた。そして玄関口付近で倒れている人の姿をすぐに発見して近寄ってくる。それが天城だとわかると、従業員は大声で他の従業員を呼び、その騒ぎで里中も目覚めて――
 再開を果たした、二人の泣き笑顔がとても眩しくて、助ける事ができて本当に良かった、と――悠も微笑みを浮かべて暫くその様子を見守り、一段落ついたところでクマとその場を後にした。


+++++

ペルソナ小説置き場へ 】【 9−1へ

2014/02301

+++++