you're forever to me >> 1-3


 夕飯を終え後片付けをして入浴を済ませると下の階での用事は無くなり、悠は自分の部屋へと引き上げた。
 そういえば入浴も天使の習慣にはない。神に近い御前天使に会う時や特別な儀礼の前には、沐浴して身を清めるが毎日の話ではない。人間界では数多の塵埃を毎日のように被るから、欠かさず身を清めた方がよいとアドバイスされたので早速試してみたが、なかなかどうして気持ちが良い。風呂場自体はそんなに広くはないが、堂島家の湯船は結構ゆったりとしていて、長い足を持つ悠が折り曲げずに済むぐらいのスペースが確保されている。程よい温度のお湯と重力が軽減される解放感がたまらない。
 今まで数度行った沐浴はだだっ広い沐浴場に立った状態で入り、水面は腰の位置で無論体温以下の水である。おまけに一度に大勢が集まる。儀式等に備える為とはいえ、わざわざ冷たい水に濡れることが悠は少し苦手だった。一人でのんびりと心地よい温度のお湯に浸かっていられるこの入浴が、悠は大いに気に入った。

 ほっこりとした気分で自分にあてがわれた部屋の扉を開けたが、出迎えられたダンボールの山を見て、今日のうちに済ましておくべき用事を思い出す。如何せん初めて本格的に降りた人間界は新しいことが多過ぎて、真面目でしっかり者の悠でもやる事を記憶から飛ばしてしまいがちになる。
 ダンボールの中身を改めるのは後でいいだろう。内容が知らされていないとはいえ予想はつく。重要な案件は全て口頭で指示を受けてきた。となると都会から引っ越してきたという筋書きであるし、人間界で過ごす為の生活用品に過ぎないのだろう。
 そう判断して、まずはクマと話をすることにした。出会ったばかりの菜々子が自分の部屋に入ってくるとは考え難いが、話の内容を聞かれると不審がられる恐れがある。悠は部屋の窓を開け、実体化を止めて純然たる天使に戻る。この時点でもう人からは悠の姿は見えなくなっている。窓から身を乗り出したところで翼を出してフワリと宙へ浮き、そのまま堂島家の屋根へ上がる。相変わらず雨が降っていたが実体化していない今は人間界のもので濡れることも汚れることも無い。
「センセイ、遅いクマー!」
 途端、クマがそばに寄ってきた。心底待ちくたびれたと全身で訴える。
「ゴメンゴメン」
「ム、センセイ、なんかいい匂いがする」
 クマが鼻をすんすん鳴らして悠の周囲の匂いを嗅ぐ。
「いい匂い?」
「センセイの身体からとー、あ、こっちも。頭の方が強い匂いクマ」
「ああ。髪をシャンプーで洗ったからかな」
 風呂場に置いてあったものを使わせて貰ったが、確かに洗っている時は甘くて強い匂いがしていた。流し終えるとそれ程気にならなくなったが、クマの鼻にはよく匂うようだ。
「甘くていい匂いクマー、なあセンセイ、一口かじってみていーい?」
「ダメだ」
「しどいセンセイ!そんなすぐ拒否しなくてもいいクマー」
 言い合いもそこそこに、今日一日を振り返る。悠が堂島親子と接触している間、クマには稲羽市一帯を探るように指示していた。主に場のイレギュラーが起こっていないかどうか――
 “場のイレギュラー”とは、霧を元にして発生したその場の歪みを指す。発生すればその地点で本来起こるはずの無い事故や事件が誘発される。
 場のイレギュラーそのものを止める手立ては無い。原因は人から発生する霧からだが、人から自ずと湧き上がる負の感情を他者がコントロールするのは容易いことではない。天使にもそれに有効な力を持っているわけではない。天使ができるのは、場のイレギュラーによって起こった事件事故を修正、可能であれば無効にすることである。
 例えば場のイレギュラーにより、問題なく走っていた車がその地点を境に突如蛇行運転を始め、歩道を歩いていた人を跳ね飛ばしてしまい、結果その歩行者が死んでしまった。場のイレギュラーさえ起こっていなければ死ぬはずの無かったその歩行者だが魂が肉体から離れてしまい、死亡状態となった。離れてしまった魂を肉体へと帰して、修正することが天使の力の一つ。もっと早くに現場へ駆けつけることができたとして、蛇行運転をしている最中の車を正常に戻したのであれば事故そのものを無効にすることも可能。
 一見人間天使を守ることと関係が無いような場のイレギュラーだが、霧が多発し場のイレギュラーが起こり易いとされる稲羽市においては重要なことで、場のイレギュラーが起こりやすい場所を把握して菜々子をそれらから遠ざけることによって守ることにつながるのである。
「途中で雨が降ってきたせいでイマイチ鼻が利かんかったクマー。でも一生懸命怪しいところ探してきたクマよー」
「…その成果が、これか」
 クマが悠に差し出した稲羽市の地図を広げ、それには今日のクマの調査結果、即ち怪しそうな地点に赤いマークが印されている…はずが。
 赤いペンで花丸印が2、3箇所つけられていて、その横にはこうコメントが記されている。
 【 じゅねすのふーどこーとたべものいっぱい! 】【 ビフテキくしうまかったクマー 】
「こここコレはぁ、とってもおいしそーな匂いに導かれてクマのリビドーがおさえられんかったクマ!気がついたら実体化して涎たらしてたクマ」
「実体化、したのか?何か言われたんじゃないのか?その姿」
「言われたクマ。ジュネスのフードコート歩いてたら食べ物屋のお店の人から『新しいマスコットか』って聞かれた。マスコットって何?わからんかったから話合わせてそうクマって答えたの。そしたらお疲れさんって言われてポテトとジュース貰ったクマ」
「食べたのか?」
「食べた。あとー商店街のココのお店の串もおいしかったクマ」
「買ったのか?」
「クマお金持ってない。貰った」
「その姿でか」
「クマのぷりちーな姿見て、おばちゃんがくれたクマ」
「…そうか。よかったな」
 話を聞く分には問題なさそうだ、と悠は適当に流すことにしたようだ。最初は悠の底知れぬ眼力で睨まれ、尋問される雰囲気がもくもくと立ち上がって内心どんなお叱りを受けるかすくみ上がったクマだったが、悠は存外に優しい声でグルメリポート(?)の総括しただけで咎めは一切なく。
 お叱りが無いのはよいが、このままでは本当にサボっていたと誤解されそうなので、クマはちょっと真剣になって報告をすることにした。
「ええとー、天界で警戒されてるほど、ここって場のイレギュラーが点在してるとは思えないクマねー。雨でクマの鼻があんまし利いてないけど、逆に言えば雨の日でもわかるような凶悪な場のイレギュラーは見つからなかったクマ」
 場のイレギュラーにも強弱がある。より多くの霧が集いイレギュラー密度の濃い場であるほど事件事故が起こりやすい。反対に放置しておいても事件事故を呼び起こせる程の力が無いものもある。というか圧倒的に後者のレベルで止まっていることが多い。
 稲羽市が警戒されているのは、人間から発生する霧に加えて、自然現象として発生する霧の多さからで、両者が交じり合ってしまえば境目がわからなくなる。交じり合って境目がわからなくなると肥大化した“それ全体”が強力な場のイレギュラーを発生させる。どうして稲羽市で自然現象としての霧が多発するのかは調査中で、表向きは地球温暖化等による異常気象とされている。
「なるほど。わかった。ご苦労様。明日は人間天使の行動範囲を把握するのと、人が集まるような施設をまわって欲しい」
 場のイレギュラーは屋外だけではなく屋内でも発生する。人の集まるところに霧が発生しやすいのだから、屋外でも屋内でも可能性はそれぞれにある。ただ屋外の方が自然現象の霧と結合しやすい分、天候によっては規模の大きい場のイレギュラーができやすい。規模が大きければ巻き込まれる物が多くなる確率も高くなる。だが室内で発生する場のイレギュラーは、人からの霧それだけで構成されるので集えば強烈な負のエネルギー場と化す。範囲は限定的だが巻き込まれればただでは済まない事例が、極僅かではあるが報告されている。
「了解クマ。センセイは明日からいよいよ学校クマね」
「ああ。ここでは、私も一介の高校生として過ごすからな」
「もーセンセイ、また言ってるクマ」
「あ。なんだっけ…一人称…」
「俺か僕クマ」
「そうだったな。俺…か」
 どこにでもいる普通の現代高校生男子として潜り込むのだから、一人称が“私”ではおかしいと指摘され、目下矯正中だが、長年使い慣れている“私”からいきなり“俺”に変えるのは悠にとってはハードルが高い。だからといって“僕”は召使の意味で頭に入れてしまっているので、人相手に使うのは抵抗がある。人の召使になった覚えは無い。
「センセイ、クマ、センセイと一緒に学校へ行くクマか?」
 考え込む悠の様子に、クマが気遣うように提案したが、悠は首を振ってクマに微笑んだ。
「いや、大丈夫だ。なんとかなるさ。手分けした方が早くこの町を把握できる。わた…じゃない、俺も早く慣れるよう努力するから。クマも引き続き探索を頼む。迂闊に実体化するんじゃないぞ」
「り、了解クマ!」
 話の締めにしっかりと釘を刺され、センセイにはこれからずっと頭が上がらないだろなーと思うクマだった。

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 荷解きもそこそこにして早めに寝付いたその夜、悠は頭の中である一つの体験をした。

 濃い霧に包まれた空間に赤い一本道が続いている。暫く走ると誰かから話しかけられる。はっきりと聞き取れない。奥の方からだ。道の果ては壁があって行き止まりのように見えたが、壁に触れるとその壁は簡単に開いた。
『追いかけてくるのは…君か…ふふふ…やってごらんよ…』
 “誰か”が近くに居るのか、今度は何を言われたか理解した。挑発されているような、だけどどこか楽しげな口調。力を試されているような口ぶりだったので、悠は生まれもって体得している、雷に属する技を前方の何かに向かって放った。当たっているようだが手ごたえがまるで感じられない。
『ほう…そうか…人ならざる者か…これは面白い…でも…簡単には捕まえられないよ…こちらにも矜持がある…容易く踏み込ませはしない…』
 辺り一帯ますます霧が深まり、いよいよ自分以外の何も認識できなくなる。得体の知れぬ者の言葉だけが続く。

『求めた真実を直視した時…何を思うのか…さて最後まで…立っていられるかな…』

 悠の脳髄を鷲掴みするような仄暗い声。強烈な眩暈に襲われ、意識が遠くなっていく。
『いつか…また会えるのかな…こことは別の場所で…フフ、楽しみにしてるよ…』

 そこで覚醒を促すアラームが鳴り、悠の眠りが終わった。眠ることは疲れを取るものだと認識していたが、疲労したかのような脱力感。酷く抽象的な内容なのに、何故か状況だけは異常に鮮烈だった。


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2013/10/05

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